昭和52年11月21日 朝の御理解
御理解 第36節
「日本国中のあらゆる神を、みな信心するというが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」
「すぐにおかげが受けられる」という。
昨日、山口の支部長であります浅野さんから電話が掛かって来た。先日からあちらのご主人も膵臓癌か心臓癌か、癌で亡くなられたんだそうですが、もう大変な苦しみだそうです。その症状と一つも変わらない人がありまして、その方のことを御取次願うておられました。この前参って見えられたのが、いつだったでしょうか、もうやっぱ十日にもなりますでしょうか。
御神米を持って行って、合楽の話をさせてもろうて、「まあお縋りしなさい」と言うて帰っておられたから、もう十日になるがどんなふうだろうかと言うて電話を掛けたところが、お家がおられない。それで病院に直接、だれか付き添いの方がおられるだろうからと思うて電話を掛けられた。ところが当の本人が電話口に出てこられた。もうそれこそ会うたこともないわけです。「私が当の本人です」とこう言う。
実は私は浅野といいますが、病気の方はどうですか、と尋ねられたらもうおかげを、おかげちゃ言いなさらんでしょうけどもね、御神米を頂いてその翌日から痛みが止まった。そしてご飯が頂けて元気が出て、そしてベッドから降りて、だから付き添いもおらんて自分は今。と言う事を、もう浅野さん自身もびっくりして、びっくりするやら、御礼を申し上げるやら、本当に信心がないとはいいながら、十日間も放からかしてというお詫びやらのお電話が掛かって参りました。
「大体私共の主人が亡くなる時、亡くなったのがやっぱ同じ病気で、同じ症状だと聞いて、まあ人事とは思われんと思うて、まあ御取次を願ったんだ」とこう言うわけなんですね。昨日は、毎日お参りになります田主丸の林さんが、お届けをされますのに、今度家を移られるのにお届けをしてあったら、都合よう家が見つかった。お願いしておったら、昨日のお届けに、どなたか今度新しい家に見えてから、「やばれ、やばれ」と言いなさるからどういうことか分からなかったんです。
「やばれ」というのは家祓いと言う事らしいんです。誰かがお祓いをして下さるお夢を頂いた。本当に安心して移られるとこういうのです。もうそういうおかげ話を例にあげると、切りがないほどです。ここの場合は。最近特に癌が跡形もなくなったという例がいくらもあります。癌ではないまあ他の癌のもありましたし、色々ありますけれども、私は耳が遠いからすっかりその聞こえんのですよ。ただ詳しく聞いたって仕方がない方がおかげ頂いて、あそこここしか聞かれんからお話しにはなりませんけれどもね。
そういうおかげがならその方達が、「もう金光様へ一心に決めた。もう何様も拝まん」といったようなことではないのにもかかわらず、すぐにおかげが受けられておるという事実です。だからここで一心を、言うなら立てると言う事は、そう言う事ではなかろうと。それを段々修行させて頂いて、お道の信心が有難いことが分かり、それこそ「生きても死んでも、やはり金光様のおかげを頂かなければならん」というので、改式をされたり、もう金光様それこそ一心。
親子もう何代も続いて、金光様一心に信心をしておる、と言う事もありましょうけれども、それでもならおかげの受けられていない事実は、沢山ある訳です。金光様一本に決めたと言うただけでは。だから私はここでこの一心を、「ここに日本国中のあらゆる神を信心するというが」と言う様に、表現しておられますから、ただあの神様も拝みよった。仏様も拝みよった。けれども段々に分からせてもろうて、金光様一本になったと言う事ではなさそうですね。
そんなに本当にもう改式をして、他の神様仏様全部ここへ持ってきて、天地金乃神様に包含して頂くというて、お宮を持って見える方達が沢山あります。先日も沢山お願いをして焼いてここでもらった。それは天地の親神様に包含する。けれども、お稲荷様だけは、そのあらたかだから、罰被るともうあらたかじゃいかんから、お稲荷様だけは、というて家にお祭してあったんですけれども、段々分かっていくうちにそのお稲荷様を持って見えて、久冨先生がそれは立派なお社を祭ってございましたけれども。
もう本当に金光様一心にということに定められたから、それもここへ持って見えましたから、久富先生がすぐ焼いて下さいました。と言うのですからそれもすきっとして本当に有り難いし、そこから一心が立つなら、やっぱりおかげも受けましょうけれども、今日は私はその一心と言う事は、教えに取り組むと言う事に一心になると言う事だと思うんです。日頃頂いておることをもうこれで行こうと、言うなら腹を定めることです。先日から神様が言わば感じなさる。
目に見えるところより目に見えないところを大事にする。第一に、言うならば、もう本当に目に見えないご先祖のお祭を大切にさせてもらう。目に見えない自分の心を、いよいよ言うならば人の見ておるところよりも見ていないところを大事にする。それが有難うなる、と、一心を定めてというお届けがそれ以来あります。例えばその御理解を説かせて頂いたその日に、ちょうど御霊様のお父さんの帰幽日であるとか、誰々の帰幽日というのが、お参りをして来とった人の中に三人あったんです。
「もう本当に迂闊な事です。今日の御理解を頂いて、本当に目に見えないご先祖を疎かにしておった」と言うて。その日は三人の方達が新たに玉串を作り、新たに御神酒を御供させて頂いたりされてお願いをなさった。あの朝のご祈念のその後にそうでしたです。だからそう言う風にもうすぐにその実行すると言う言がね、どこが助かるかというと心が助かるんです。本当にもうそうだと分からせてもらう。
昨日も日曜ですから、特別奉修員の方達の御祈念をさして頂きまして、その後に聞いて頂いたことでしたけれども。北野の秋山さんが今度信心実習で、宮崎においでられとった。それで長男があちらに行っておりますから、お母さんあちらに見えられるなら僕が日曜日になりますから、宮崎中のご案内は僕が引き受けた。ともう何かとまあ、それこそ親身にこれだけの、もうその心使いやらが出来るようになったとが親として大変に嬉しいというお届けがありましたが。私はあちらに子供がおりますから。
その子供どん連れてこられたんではあの人が本当のお世話が出来まいから。電話で子供は豊喜さんていいますけん子供が孫が。それで「豊喜は連れて来なさんな、御用が出来んといけんから」と言おうと思うたけれどもね、「ここは言うちゃならん、黙って治めにゃならん」というてその、まあ心にそう思いましたとこう言うんです。それであちらに着いて丁度駅に迎えに来ておったから、子供連れて来よらんから「豊喜は」と言うた所が「いや御用に差し支えちゃならんから連れちゃ来んじゃった」とこう言う。
「もうその時私は、成程言うちゃならんと思いました」と言う事をお届けしておられました。その後にまたこう回られる時に、みんなあそこの前からだったんでしょう。「その豊喜さんを連れて来なさいよ。邪魔にゃならんから」とみんなから言われて連れては行ったけども、その時の本当に黙って治めると言う事を、本当に心に決めて定めると、言うならもうすぐにおかげを受けておるわけです。私も先だって、いつも月曜日に床屋さんが来てくれるんです。
ですからもう私は床屋が来る時には、三日も四日も髭を伸ばしとくんです(笑)。髭を綺麗に剃っとっては気の毒かろうという気がしますから、取っとくんです。ところが月曜の日に来ないんです。それでならまた次の火曜日に、その月曜日の晩にお風呂に入る時に、よっぽど剃ろうかと思うて、一日遅れて明日でも来るんなら、また床屋に気の毒かけんでと思うてから。その月曜の晩も髭を剃らずにおりましたら、電話が掛かって来てから、「今から行こうと思いますがいいでしょうか」と言うから。
どうぞと言う事でまあ髭を剃ってもらった。「あんたもう昨日はいつも来てくれるけん。来てくれるじゃろうと思うてからちゃんと髭ばこげんして取っとったばい」(笑)と言う事を言おうかと思ったけれども、それはやはり責めることになりますからね。「それはどうも済みませんでしたどうぞ」とこう言い訳もあるでしょうけれども、それでは別にそげなことでもです。やはり責めんと決めたら責めんのですから、黙ってこう髭をあたって、頭をつんでもらいましたら、床屋さんがその散髪しながら言うんです。
「本当昨日はすいません、昨日は組合のなんか慰安会で原鶴行きしたもんですから、本当ほんと電話を何遍でん掛けましたばってん、こちらが出なさいませんでしたけんで、本当ご無礼しました」「はあそげなことじゃったの」で済むわけです。私がだから「昨日はどうして来んじゃったの」とこう例えば言う。私は「髭取っとったばい」と恩きせがましく言わなくてもね。それこそすぐにおかげが受けられる。そしてその後の心の状態のさっぱりしておることね。
もうどんなことでも例えば恩着せがましいことやら責める様な事やらは言うてはならないな。そこにお道の信心のね、なんかこうすきっとした信心。だあれも知らんのただ私の心の中に有り難いなあと感じるだけ。なら秋山さんの場合であってもそうです。お届けこそしておられるけれども、自分の心の中に成程どんな些細なことであっても、わざわざ注意をするとか言うて聞かせよるとかして、その「ああしなさんなこうしなさんな」と言う様な事やらは、成程親先生が言われるように黙って治まって行けるもんだ。
その治まって行けると言う事その言が有難いんだとこういうのです。段々信心も育って参ります。この前の前の御神前に御供してありました花は、白百合がいっぱいでした。それで私が白い花を好かんと皆が思い込んどるものですから、沢山色々赤やら色んな菊やらをこう入れておったけれども、ひとつもここから見るとすっきりしませんからね。「そりゃもう他のとは取ってしまいなさい、もう白百合だけの方がすきっとしていいよ」と言うて、あの月例祭から月例祭の花が白百合ばかりだったでしょ。
成程以前の私なら、ば引っ掛りもしたでしょうけれども、自然の働きというものはです。白い花が集まってくる。白い花が例えば、霊前に御供をさしてもらう、と必ず誰かがお国替えをされるお届けがある。だから白の花が来るとひやっとこうしよった。椛目の時代にあの白玉ポートワインが来ますとね、もう必ず誰かが亡くなるお届けがあっとりました。だからもうそれ以来白玉ポートワインを、御供えする人がなくなったです。
ぐらい心を使うわけです。私が行くところに白の花は、赤いカーネーションならカーネーションをですね、そこに入れちゃおかしいのだけれども、やっぱり一つ赤を入れとかにゃいかんだろうというて、まあそういう心を使わせておったけれども、それは確かに自然の働き、私と神様との心の交流が一つのそういう調和になって、こういう時にはこういうおかげだと言う事をです。
だからもうそうだと言う言がもう分かればそれでよいでしょうが。だからこれから白い花が集まって来ても、もうそう言う事に関わりなく、神様が私にわざわざそのことを教えなさらんでもよいわけ。ですから、もう今の私の気持ちの上には、それが白であろうが赤であろうが、それでどうと言う事は、自分の心の中に引っかかりません昨日、菊栄会で東さんがコカコーラに勤めておられますから、あちらで有料の何か貸出の映画のフィルムがあるそうです。
もうあのスコープなんとか言いますか、あそこ新館のあそこへいっぱいに映る大きな映画です。それが大変珍しい映画でしたが、あのとにかく三千海里か、とにかく五十日間もかかってから、その小さい島からそこの土人の方達、土人と言うかの人達が五名か六名かであの沖縄の博覧会を目指して五十日くらいかかってからやって来ておる。それをずうっと細かに、そのいわゆる映画にしてしてある。
それを森繁久弥さんも一緒に行ってですね。自分はあのヨットに乗ってその船と同行して、ずうっと写してきた映画を昨日見せてもらいました。前日「実は菊栄会にこんなおかげを頂きたいと」思います。とこう言われて。「そりゃええの」「けども親先生、一つひっかかるとこがあります」「そのどげなところが引っ掛るの」ちゅうたら。その土人の人達がね、大きな亀を捕まえてそれを殺して食べるところがあるちゅう(笑)。「だからどうもこれがひっかかるけ、いいでしょうか」と。
「そんなことは問題じゃないが、私が殺されるわけじゃないから問題じゃない」(笑い)もう亀と言えば、そんくらい言わば神経を使うわけ。けれども、今の合楽にはそんなことは問題じゃないというぐらいに、私の信心が確かにそういう事実を、体験の上でこちらが分っておりますから。そういう言わばおかげを頂かせてもらってです。言うなら心の上に助かりを頂いておるということがです。
私は本気で、例えばなら、目に見えるところより目に見えないところを、今までは疎かにしておったなあ、これからはもう却って、目に見えないところを、本気で大事にしようと腹が決まったところから、自分の心が救われるのです。助かるのです。私は今日は一心を立てると言う事はね、そう言う事だとこう思う。勿論自分の心が助かるのですから、心に現れてくるおかげはもちろんのことです。ですから自分の心が助かる。それにはもう教えを本気でです。
成程だと合点がいったら、もう本当こう、すっきりと、まあさわやかに自分の心の中におかげとこう頂けれる、感じれれるのです。昨日も椛目の宮崎さんところの、北九州の方へ行っとります長男の孫ができました。それで前の日に、お母さんがそのお名前を頂きに参りました。それが佐田恭造さんの「恭」ですね、この恭という。それに「恵」と頂いて、恭恵(やすえ)と頂いたんです。そしてその時お母さんが妙な顔をして頂いて帰りましたもん。そしたらそれがしら字じゃったそうです。
これは(やす)ちゃ読まんと。だから明くる日来てから、書き直してくれと言う様な事を言われるから。そんなら書き直そうとして、私がまたその学問がないもんだからこんな間違いをすると言うて、ま、あの、安泰の「泰」という字ですね(やす)という。に書いてまた渡しました。「それでも宮崎さんこれは私が神様から頂いたことじゃから、あのこれもやっぱり上げとこ」と言うて前日のその返されたけれども持たして帰しました。それで昨日あちらの長男も一緒に御礼に出て参りましてからです。
すぐ小倉の方へ小倉の記念病院へ入院しておりますから、あちらへその名前を持って行かれたところが、あちらのお父さんがなかなかの学者でこれは「これは恭(やす)と読みます」と言われるそうです。「だからやっぱりこの方がいいです」と言うて、後で書き直したとは置いて、その初めに私が書き下げさして頂いたのを、ま頂くことになりましたと言うて昨日、まあ親子三人で御礼に出て参りました。そういう時に私の心の中に、「神様から頂いとったのを返したりなんかして」と。
いっちょもこの頃ひっかからんようになったと言う言がね。やはりおかげを頂いて成程神様が下さるものには、それこそ一部の間違いもないんだなと言う事をです。これで宮崎さん達夫婦がいよいよ感じなさっただろうとこう思うんです。そういう御取次を頂いての事。これは良い事悪い事みな良いんだと言う様な言が、信じれると言う事はそういうそういうおかげも体験も、やはり積んで行かなければ頂けない事なのです。だから体験を積んで行って、白の花が集まる時にはこうだと言う様な。
すると白の花は大変ご無礼な花と言う事になったり、嫌な花と言う事になったり痛します所に、いわゆる引っ掛りが出来るんです。だからもう体験を通して、私共がそうだと言う言が分かったら、後はそれはそう言う事ではない事に頂けれる。もう神様も心を使いなさらんでんよいことになるし、私も心を使わんでよいことになる。そういう信心がです。私は「一心と定める」と言う事は、本当に教えを頂いて、これが本当だよと頂いたらその本当だよと言う事にすぐ切り替えて行けれる信心。
昨日、一昨日、夕食をしよりましたら、東京の支部長であります稔さんが夫婦でひょっこりやって参りました。それで「ねーごっじゃったの」と言うたら、その自分方に勤めておった職人の結婚の仲人をしておるから帰って参りました。だけではなく、先日から、あちらに見えるお客さんに大変有名な彫刻家の方がおられる。それで僕は大黒さんが欲しいと言うとったら、それこそ見事な大黒様を、もう本当に初めてあんなに細かい彫刻をした大黒様を見せてもらったんですけれども。
その晩私は御神前にお供えをして、御祈念をさせて頂いておりました。そしたらね、その大黒様が右に持ってござる打出の小槌を左に持ち替えられるところを頂いたんです。だからもう大黒様じゃないことになったわけです。言うならもうそのまま親先生と言う事で拝んでもよいことになった。ですからそういう例えば御理解を、なら頂いて頂きましてもです。そういう時にあぁおかげを頂いた。もうならこれは大黒様の姿であるけれども、大黒様じゃない。
いわゆるここでは、『この福神を祭りなば、家に宝の尽きることない』という御教えが伴うて、もう親先生これは親先生として頂ける確信がね、即出来れるおかげを頂かなきゃいけんのです。親先生が御理解には、右から左に持ち替えたという御理解をなさった。お知らせを頂きなさったげなだけではいかん。もう大黒様ではない。親先生だとそれを信じれるところにです。成程『この福神を祭りなば、家に宝の尽きることない』というおかげが受けられるのです。
そこの所がすっきりしないとです、おかげにならんです。だからそのすっきりすると言う言がです。日頃教えに忠実であってそしておかげを頂いて来る。おかげを頂いて来ておるその体験がそういう時に、もう御取次を頂くたんびんに、またそう言う事のたんびんに「はあこれでおかげ頂いた」と言う心が生まれてくる。その心がもう助かっておる訳。だからその助かった心に尽きぬ又おかげが繋がって来ると言う訳なんです。
今日は私は「一心と定めい」と「この一心を出すとすぐにおかげが受けられる」という一心は、言うならば、教えを本気で行ずるということにです。一心を立てたらもうそこから助かるぞ、と言った様な心の助かりを頂くことが出来るんです。「大黒様、大黒様」とみんなが言うあの時代には、もう実にその霊験あらたかだった。それがもうお水も欠かさん、お茶も欠かさん、拝むこともしっかり拝む。所がこの頃大黒様を拝んでから「お金が入ったげな」とはあまり聞かんごとなった。
ちっと疎かになったんじゃなかじゃろかとこう。ですからもう本当に御祈念をする。例えば大祓信行なら、大祓信行とこう決めたら疎かにする言がない。大黒様へ向かう奉仕の事でも「もうこれだけは欠かさんぞ」と腹を決めたらそこからです。「助かれるぞ」という心が湧いてきます。それがね私はすぐに頂けれるおかげと。「この一心を出すとすぐにおかげが受けられる」と仰る、一心とはそう言う様な事だと思うんです。
どうぞ。